以下の文章は、2024年5月9日(木)〜13日(月)に、ギャラリー同潤会で開かれた私の個展「名の無い領域」の序文である。※個展タイトルは画像の作品「名の無い領域」より取った。 私が絵を描き始めるとき、そこにはまだ確固たるものは存在しない。紙を目の前に、移ろう感覚を追うように紙に筆を落とす。その時初めて、色が、かたちが、私自身に強い感覚をもたらす。1回、2回と、感覚への反応が連鎖し、徐々にかたちを結んでいく。 私は、かつてこの行為のとりとめのなさに不安を覚えていたことがあった。しかし、ある体験から、私の内にある感覚は、人間の内なる自然にしたがっており、どこかで普遍性へと繋がっているかもしれないと思うようになった。とりとめもなく「ただ何かをなしたとしかいえない不安」は消えた。 今回、展示する全ての作品は、パンデミック前に描かれたものがほとんどだ。しばらく寝かした絵を再び見るのは多少の緊張を自身に強いる。もしかすると全く良いものに見えないかもしれないし、まったく見当はずれに映るかもしれない。久しぶりに封を解き、目の前に現れた絵には、器用とは言えないものの自身の今へと続く歩みを確認することができた。 私の、感覚への反応の連続が、一枚の絵を生み出すのと同様、喜びや悲しみ、怒りや憎しみなどといった、感覚への反応の連続が、一人の人間を「私」へと造形する。この文章を書いている一人の人間は、その「私」を見ている。「私」は、描かれた絵のように少しだけ遠くにあるように思えた。 私は生まれ、私の知らないうちに名を与えられた。今ここにいる一人の人間は、その存在を自分自身で定義することすらあやしい。しかし、生成変化の流れは留まることなく、その体感も止むことはない。それなのに一枚の絵は、描かれることで、ある時空へ固定され留まり続ける。絵を描くことが何か矛盾を抱えた行為に思えてくる。しかし、私自身の変化もいつかは終わりを告げる。一人の人間は、絵の前を去り、「私」からも去るだろう。逆説的だが、私も生成変化の一部であるのだ。 昨今、人間やその文明の行き当たる予測不能な状況が次々に現れるのを目にするにつけ、人間は、内なるものを見つめなおさなくてはならない時期なのではないかという思いが湧いてくる。人間は、おのずから働く「内なる自然」を持っている。それはいつだって起こり続けている。避けようとしたところで避けようもないし、求めたところで同じことが起こるとは限らない。また、そのことへの反応の結果といえば、人それぞれに多様である。それでも、人間に、ただ単に「感覚」が起こるということについては誰しもがある程度は頷けるのではないだろうか。そうであれば、一人の人間にまだ名付けようも無い感覚が訪れたとして、それに名を与えてしまう前に、ほんのわずかでも良いから時の猶予が与えられるべきだと思う。そしてそれは不可能ではないだろうと思う。もしも、私の絵がそういった瞬間にあなたの目の前にあったならば、それは喜ばしいことである。2024.4.1 金子大悟名の無い領域Nameless Field2020Watercolor, paper830×520Frame size951×648(mm)